JGAA日本ガラス工芸協会 to top to English page

 

oct.14.2009

 会員を知る:シリーズ”私の仕事”

Vol.7 山科 昌子さんに聞く・・・2009年10月 

1988「世界現代ガラス展World Glass now ’88」
   北海道立近代美術館 札幌/ほか巡回
1989「サントリー美術館大賞展」サントリー美術館
1999「日本のガラス2000年」展 サントリー美術館
2002「第1回現代ガラス大賞展・富山2002」
   富山市民プラザアートギャラリー(’05)


今回は子育てを終えてから再度大学生活に戻られ、独自のキルンワーク制作を続ける山科昌子さんです。
(聞き手:神田正之)

1 ガラスを始めたきっかけは何でしたか?
=短大の家政科の服飾コース卒業後、京都で開学したての美術系短大に副手、助手として5年間勤め、結婚を期に退職しました。その頃ヨーロッパへ2週間美術の研修旅行に行き、パリの教会のステンドグラスに、とても感激しました。実は以前私のおじが古い洋館に住んでいて、そこに素晴らしいステンドグラスが沢山ありました。それを幼い頃見ていたので幼児体験として強く残っていて、ステンドグラスを始めるきっかけに繋がっていったのだと思います。

2 今の作風になるにはまだ色々ありそうですね。
=結婚してからステンドグラスを学ぶために神戸の文化教室に通いました。その後、フランスに留学されていた故清水伯夫先生に絵付けなどを中心に学びました。日本での滞在型グラスワークショップの草分けだった、長野県での美麻グラスワークショップのステンドグラスコースへの参加が大きな転機になったと思います。キルンワークのクラスを隣でやっていて「これは面白い!」と感じました。30年前は教育機関も無く、国内外のワークショップに参加して色々な技法を学びました。 美麻へは当時小学校2ー3年生だった娘、花恵を連れて行った事があります。マリアン・カレル、ダナ・ザメチニコヴァのワークショップに参加し、夏休みの宿題をちゃっかり横で制作させてもらったのは楽しい経験でした。

3 それはスゴイですね!小学校の先生も驚いた事でしょう。その花恵さんがなんと現在日本女子サッカーリーグ、伊賀FCくノ一の中心選手として活躍しているんですね。話は少し脱線しますが・・・へたくそでしたが中学高校とサッカー部でやってきた自分としては、とても尊敬します!一度試合を観てみたいです。
=ぜひ観てください!今は残念ながら2部に落ちていますが首位を走っています。娘は小学校の時「キャプテン翼」に触発されてサッカーを始め、現在は三重県伊賀市で昼は中学校の体育講師、夜は忍者のごとくグラウンドを走りまわっています。もうそろそろお嫁さんに行って欲しいと母は願っていますが・・・。

4 確か山科さんの作品をまとめて初めて拝見したのは1990年の銀座プラス・マイナスギャラリーでの個展だったと思います。1988年に北海道立近代美術館の「世界現代ガラス展」、1989年にはサントリー美術館招待出品と華々しい発表をされていきましたね。
=私はとても運が良かったと思います。キルンワークというものが珍しかった時代だったという事もあったかも知れません。次々に発表する機会を頂けたのはありがたい事でしたが、蓄積の無い身でしたので、だんだんと苦しくなっていったのも正直な所です。

5 今のスタイルになったのはいつ頃からですか?
=意外と最初からやっていました。モデルの無いスタートですから、「この様なものが出来ないかな・・?」とスケッチして、誰からのアドバイスも無く、無意識に作ったものが自分のスタイルになったような気がします。電気炉に神様が住んでいたのでは・・・(笑)

6 2006年4月から倉敷芸術科学大学で学ばれたそうですね。先生になるような山科さんが大学で勉強を続けられた事に、とても頭が下がる思いです。そのきっかけや動機を教えてください。
=自分自身に行き詰まりを感じていました。それと、あと20年間は頑張って作品を発表したいので、その為には自分の中の引き出しを拡げたいと思っていました。前々回の「日本のガラス展」の時、磯谷晴弘さん(同大学教授)が友人に「もう一度大学で勉強してみたらどうですか?」と話しているのを横で聞いていて、『あ、そういう手があったか!』と私の方がその気になってしまったのです。美術短大で働いていたものの、きちんと美術教育、ガラス教育を受けていなかった事にコンプレックスを持っていたのかも知れません。主人に「こんなんあるけど、行きたいわー」と話したところ、すんなりと賛成してくれました。常々、私の制作を見て感じてくれていたのではないかと思いました。

7 いつも思っていますが、素晴らしいご主人ですね!大学ではどのような立場だったのですか?
=磯谷さんが大学の履修方法を色々調べてくださいました。今更学部生というのも何なので、大学院の実習をとったらどうか、という事になりました。科目等履修生という実習だけを受けるシステムがありましたが、教授会の承認を得る際にも、色々お心遣いを頂きました。

8 大学は全ての設備が充実していますが、ブローも実習しましたか?学生生活はどうでしたか?
=キャストをしたかったので、それを中心に勉強しました。安いアパートを借りて、月ー木曜日は大学、金土日は京都に帰る、という生活を続けました。毎回新幹線という訳にもいかないので、割安な高速バスや在来線でも通いました。正式に大学院生になり学位を取る事も勧められましたが、年令や経済面を考えて断念しました。講義も沢山受講しましたが、頭の中は錆ついていて、もう5年早ければ学位に挑戦出来たのでは?と本当に残念です。 当初1年間の予定でしたが、途中いろいろな事情で中断もし、結局3年間在籍しました。恵まれた環境の中で、優れた教授の方々、若い学生さんの制作に対する熱い想いを自分の栄養として過しました。私のような者を受け入れて下さった大学の皆さんに本当に感謝しています。今後新しい展開でどのような作品が生み出せるのか未知数ですが、細々ながらも制作を続けるつもりです。

9 子育てをしながら作家活動をしてくる事が出来た秘訣のようなものはありますか?
=今思えばとにかく制作したい!という勝手な情熱が先行していました。主人と娘がそれを認めてフォローしながら共に生活してくれていたのですね・・・感謝しています。一人娘は小学校へ行く前はどこでも連れて行き、私の世界を見せました。工房も家に作るしか仕方なかったので、制作する姿も理解出来たのではないでしょうか?嫁ぎ先も京都の中京の古い家だったので、お姑さんにしたらビックリする嫁だったのでしょうね。実家の両親にも助けてもらいました。今更ながら申し訳ない気持ちで一杯です・・・。皆に支えてもらったお返しは、制作を続ける事と思っています。

・・ありがとうございました。いつまでも学ぶ事を続けられる山科さんのスピリット、とても刺激を受けました!

▲top 


トップページ | お問い合わせ | サイトマップ | English |  ©2007 JGAA