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Dec.04.2013

 会員を知る:シリーズ”私の仕事”

Vol.15 倉本陽子さんに聞く・・・静かな制作時間を楽しんで


今回は長年、理事・副理事長を務められ、富士山の麓、山梨の静かな工房で制作を続けている倉本陽子さんにお話を伺いました。(聞き手:広沢葉子)

 倉本さんは武蔵野美術大学を卒業。大学では彫金を専攻されていましたが、ガラスの素材との出会いは?
 =私が卒業したのは造形学部工芸工業デザイン科というところなので、彫金だけでなく広くデザインを学びました。また在学中は建築や彫刻など他の科の友達もいて、建築のゼミに参加したり、学外でのデザイナーの講演会にいってみたりと、卒業後何をしようかと考えていました。そのころは北欧のシンプルなデザインが注目された時代でもあったので、ガラスのデザイナーはいいなと思ったのです。1970年代にヨーロッパで多くの作家の工房を訪ねたこともあって、卒業制作のジュエリーは北欧の影響大でした。
 卒業後は結果としてジュエリーの会社でデザイナーの仕事をはじめたのです。ダイヤモンドの輸入会社で高級ジュエリーのデザインに10年くらい携わりました。ジュエリーの仕事をしながらも、ガラスのへの興味は持続していて、どこか仕事をできる所はないかしらと探していました。数年後ガラス会社にデザイナーで入る事ができ、ジュエリーの仕事と兼務しながら続けていました。そして工場の昼休みにガラスを自分で吹く様になったのです。でもその当時、女の人が吹きガラスをする事は例がなくとても大変なことでした。どのように制作を続けられるか、いろいろ迷っていた時期でしたが、ある時アメリカのクラフト雑誌を見ていたらピルチャックという所でガラス講座がある事を知り、行ってみようと思ったのです。1980年でした。たまたまジュエリーのコンペティションで入賞し賞金をいただいたので、資金を得てピルチャックに行きました。その時代はデイル・チフーリや、フローラ・メイスがチームで仕事をし始めたころでした。アメリカでは、女性もいきいきとしてガラスの仕事ができるということを目の当たりにして帰国し、あきらめようかと思っていたガラスの仕事を続けるきっかけになりました。

 今の山梨県山中湖の近く、忍野村の工房はどのように作り上げていったのですか?
 =最初は伊藤ガラス工房として吹きガラスの工房に参加するかたちでここへ来ました。伊藤孚さんと石橋忠三郎さんと三人で窯を作ることから始めました。とにかく自分で素材に触って制作したかったのです。30年前のことです。その頃はそれぞれが他の仕事もしながら工房を維持していたので大変でしたが、今思えば夢中だったのでしょう。金曜日の夜に来てルツボを交換し火入れ、もちろんコンピュータ制御も無く手動で昇温し、土曜日にガラスを溶かし、日曜と月曜に作業して火を落とす。そんな事をくりかえして制作していました。
 私はその後、九州のマルティグラス株式会社のデザインの仕事もさせてもらったりしました。マルティグラスも今はもうありませんが、ユニークな会社で工場には毎日20から30色くらいの色ガラスが溶けていて、いろんなかたちのものを作るのに職人さんたちは色ツボを探し、走り回って仕事をしていました。その頃までは日本のガラス工場は元気な時代だったと思います。デザインと試作の繰り返しで、多くのがんこな職人さんたち、営業さんとのけんかのようなやりとりはなつかしい思い出です。
 最終的には東京と九州との行ったり来たりが大変になり、こちらへ引っ越しました。ここの静かな生活が気に入ったということももちろんです。 その頃から仕事はキルンワークが主となったので、現在のアトリエを作りました。2階に教室スペースがあり、たまにワークショップなどすることもありますが、基本的には一人で制作しています。

 作品はどのように生まれるのですか?Baseになっているものは何ですか?又、仕事のリズムを教えて下さい。
 =私の仕事の仕方は、ほとんど素材が先にあります。素材にふれながら次を考えていくというタイプです。石膏型を彫り、ガラスを削りながらまた次の新しいかたちを作ります。
 キルンワークの仕事は、吹きガラスの仕事と比較すると素材が持つ流動観に欠けますので、どこかパワーが足りないという思いもありますが、私の最初のシリーズ、「湖のうつわ」はスランピングですが、厚いガラスの板が熱で動いた力強さをある程度だせたかなと思っています。今の仕事は、ガラスならではの光によってかたちが現れることが主なテーマになっています。
 日本人特有の色彩感覚や自然観に現代の感覚をあわせたもの。その上でシンプルにそぎおとしていくのが理想ですがなかなかうまくはいきません。
 若い頃にかかわったジュエリーデザインという仕事は、上質な洗練された美しさを求められる仕事でした。そのことはいまでも影響を受けていると思います。

 ある時実家の古い家を整理していたら、谷崎の源氏物語の全集を見つけました。昭和15年頃のものです。わからないままにそれを読み、平安時代の人たちの色彩感覚や植物や風景の描写の素晴らしさに心引かれました。その後与謝野晶子の源氏も読んだり、それに続く古典にふれたり、地元の友人との読書会で古い英国文学も並行して読んだりしています。それらの楽しいことが私の心の引き出しに残ってくれることは豊なものですし、いつの日か私の表現として現代に日の目を見ることもあるでしょう。それが自分を表現することであると思うのです。
 手の仕事、手から生まれるものを大事に制作して行きたいと思います。

 ここ数年は実家の用事が増えてしまったので、自分の仕事は少しペースダウンしています。ガラスの溶解炉を維持していた頃は余裕がなく、走り続けていた様な状態だったので、やっとゆっくり散歩する時間をもてていると思っています。ここは寒い所なので冬は訪れる人もなく静かです。冬のあいだにゆっくり試作をして、春になったら形にするという感じでしょうか。雪の林の中に差し込む光はきれいですよ。都会と距離をおいて孤独に制作するのは性に会っているのかもしれません。

 長い間協会の理事、副理事長を務められましたが、協会に対する思いをお聞かせ下さい。
 =私が理事や副理事長をさせていただいた時期は、一回目の変換期だったかもしれません。
吉本さんと私というはじめての女性スタッフで新鮮な会をと思い働きました。もちろん岩田事務局長もお元気で、女性パワーでがんばった時期でしょうか。今でもそうでしょうが理事長は特に大変だったとおもいます。
 こういう田舎に住んでいますから、いろいろな会合に参加するのにも時間的に大変でした。今は東京以外の方も会議に参加できたり、いろいろな方法もとれるようになって良い事だと思います。
 その頃のことを考えても少数の人に負担のかからぬよう、会員は皆が順番で何らかの仕事をしたら良いと思います。

 独立後もデザインの仕事をしながら、上越クリスタルでご自身の作品制作も続けていらしたとのことですが、デザインの仕事に対して、ガラス制作はどのような違いがありましたか?
 =個の表現。アートに徹するということ。どんな手法であれ、ガラスを生み出すことが大切。生み出そうとする人の個性や感性が宿っていること。元気な内は一貫してやっていく。できなくなったら「はい、おしまい。」と。(笑)二代目ピカソは無いのだから、そのひと個人の美的表現、芸術表現だと思う。

<後記>  三人で始められた伊藤ガラス工房は日本のスタジオグラスの先駆け。国内の女性で初めて宙吹きの作品を工房で制作していらした倉本さん。一つ先の世代の先輩として目標にしていました。私自身が吹きガラス工房を作った時も同じような形態で仕事をしたいと熔解炉作りなど御指導をいただいたので、吹きガラスの工房を閉じた時はとても寂しい思いでしたが、今回お話を伺って、素材への情熱はそのままに自然と流れるように今の仕事の形に移られたのを知って、又、日々豊かに年を重ねられている様子をお伺いしてとても素敵だなと感じました。いろいろと積み重ねている感性が、これからの作品にどのように現れてくるのかとても楽しみです。ありがとうございました。

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